chayarokurokuroの雑記ブログ

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景行天皇が示す邪馬台国のヒント

日本書紀景行天皇紀にある邪馬台国のヒントについて。

以前の投稿

で、景行紀に狗奴国の場合のヒントが隠されていると書きましたが、邪馬台国についてもヒントが隠されているっぽい。見ていきます。



第12代天皇景行天皇

和風諱号を「大足彦忍代別天皇
別称で「大帯日子淤斯呂和氣天皇」「大足日足天皇」 「大帯日子天皇」「大帯日古天皇」 「大帯比古天皇」など。



オシロワケです。新羅と関係がありそうです。

実在については疑問視されており、4~7世紀の出来事を繋ぎ合わせて作られた人物なのでは、と考える説がある。

先代は垂仁天皇、次代は成務天皇
父親は垂仁天皇で、母親は日葉酢媛。
皇后は播磨稲日大郎姫、八坂入媛。
子はヤマトタケル他多数。
皇居は纏向日代宮、志賀高穴穂宮。
墓所山辺道上陵。

143歳でお隠れあそばされています。

日本書紀景行天皇紀には九州巡幸のことが書いてあります。山口県の下関から北九州市小倉へ渡り、九州を時計回りに進んで、熊襲や土蜘蛛を毛散らかして行きます。終点は福岡県の筑後川流域にある浮羽(的、うきは)。

「的 うきは」の地名は佐賀県にもありまして(吉野ヶ里遺跡の西側)、その近辺の神社には景行の子であるヤマトタケルの武勇伝が残っております。

また、「的」は武内宿禰の子の1人、葛城襲津彦の子孫とされる「的臣」と関係していると思われます。的は松浦のマツ、ウキハと読めば五島の宇久島と関連がありそう。



豊前国長峡のミヤコと御所ヶ谷神籠石

さて、天皇豊前国長峡(ながお)に入り、宮を建てます。現在の京都郡(みやこ)、行橋市苅田町の付近と考えられているようです。そこには御所ヶ谷神籠石(ごしょがたに・こうごいし)という古代山城があり、コンクリートブロックサイズの切石で塀を作っていたりする、なかなか立派な山城です。山城の中に景行神社なるものもあったりします。後に黒田官兵衛が居た所でもある。
御所ヶ谷神籠石は『隋書』に出てくる「秦王国=俀国」と関係があると思われます。

天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處曰也。

日本書紀』景行紀

ミヤコと呼ばれる由縁。



宮崎県児湯の日向と平群

景行天皇は大分を南下して宮崎に入ります。

十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。

子湯縣で「日向」と呼ばれる由縁を述べられております。現在の地名では「児湯」で、近くに西都原(さいとばる)古墳群があります。

児湯郡(こゆぐん)は、宮崎県(日向国)の郡。和名類聚抄によると、郡は八つの郷から構成されており、三納郷、都野郷、穂北郷、大垣郷、覩唹郷、三宅郷、韓家郷、平群が記載されている。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E6%B9%AF%E9%83%A1

↑の児湯の説明に「平群」の地名がある。

武内宿禰の子に「平群木莵(へぐりのつく)」という人物がいる。その子孫に「佐和良臣」。博多湾周辺の弥生遺跡の中でも初期にあたる吉武高木遺跡がある。それより更に古いものが早良区にあり、早良王朝などと一部の方々に呼ばれる。奈良時代の記録などでは福岡市にも平群と呼ばれる地名があったようです。筑紫(ツクシ)のツクは「平群木莵」の「ツク」から来たという意味込めてあったりして。



思邦歌

さて、景行天皇は児湯の地で都を思って、有名な次の歌をうたわれます。

是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、

波辭枳豫辭(愛しきよし) 和藝幣能伽多由(我家の方ゆ) 區毛位多知區暮(雲居立ち来も) 夜摩苔波(やまとは) 區珥能摩倍邏摩(国のまほろば) 多々儺豆久(畳づく) 阿烏伽枳(青垣) 夜摩許莽例屢(山籠れる) 夜摩苔之于屢破試(やまとし麗し) 異能知能(命の) 摩曾祁務比苔破(全けむ人は) 多々瀰許莽(畳薦) 幣愚利能夜摩能(平群の山の) 志邏伽之餓延塢(白橿の枝を) 于受珥左勢(髻華に挿せ) 許能固(この子)

是謂思邦歌也。

「夜摩苔 ヤマト」「幣愚利 ヘグリ」の地名が出ている。元祖「ヤマト」「ヘグリ」がこの地だということを示したものだろうか?

倭国は古(いにしえ)は倭奴国であり、倭国の最南端にあった。児湯の南にある串間市では前漢時代の物と思われる「玉璧」が出ております。皇帝の一族が持つ物だとか。超一級品。「璧」はその他に、福岡県の奴国と考えている須玖岡本遺跡伊都国とされる糸島の平原遺跡で出土。「ガラス璧」。同じく三雲小路遺跡、筑前町東小田峰遺跡。
(訂正:平原遺跡はガラスの耳璫ジトウでした)
古の倭奴国と早良王朝と平群はどのように繋がっているだろうか。疑問を残して先に進みます。



八女縣と神の八女津姫

天皇有明海の方へ西に進み、北上していきます。福岡県大牟田市の三池の高田行宮で、ここが狗奴国であるかのようなのヒントを出されます。因みに「高田」の地名は山門郡瀬高(現・みやま市瀬高)にもある。



大牟田の三池が狗奴国であれば、その北が邪馬台国であるはずです。天皇は八女に北上します。

到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏 言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。

「藤山」を越えて「粟岬」を南に望んだ場所は、現在の福岡県久留米市高良山のあたりだろうか。

天皇「峰が幾重にも重なって大変に美しい。山には神がいるのではないか」


三沼縣主・猨大海「八女津姫という神があり、常に山中におります。」



峰が幾重にも重なって美しい」という部分は、天皇が児湯縣で詠んだ歌を連想しませんか?

やまとは 国のまほろば 畳づく 青垣 山籠れる 倭し麗し



「幾重にも重なって甚だ美麗」な八女の八女津姫がこもる場所こそ、景行天皇がヒントとして指し示す本当の邪馬台国=ヤマトなのだ!



この三沼縣は現在の三潴(みずま)という地名で、景行紀以外では三潴君として登場する。岩戸隠れをしたアマテラスを引きずり出す時に裸踊りをした芸能の神・アメノウズメの夫の猿田彦采女氏、稗田氏と関係がある。
アマテラスを卑弥呼とした場合、場所的に問題ない。古事記編纂に稗田阿礼が関わっているのも。福岡県京都郡にも稗田村という地名も。

八女津姫のいたと思われる現在の八女津姫神社を有明海の方へ川を下ると山門郡瀬高(みやま市瀬高)。古代山城の女山(ぞやま)神籠石があり、昔は女山(ぞやま)を女王山と呼んだとか。神籠石の列石の領域内から弥生時代の青銅の剣などが出土。また、近くに女王塚なる古墳も。大正時代に慮って「蜘蛛塚」と名前を変えた。雨が降ると血を流す伝説があり、朱が詰まっているのだろう。邪馬台国では丹が採れる。