妄想メモ。
『日本書紀』の欽明天皇紀に、筑紫君の子として筑紫火中君と筑紫火君が登場する。筑紫君の末裔はその他にも筑紫君葛子、筑紫鞍橋君、宮地嶽神社の祭神と古墳被葬者関連、八女古墳群、須多田古墳群、大石古墳群など、ぶっ潰された割にはいろいろ居るようです。大戦争のはずだが何事も無かったかのように続いている。考古学でも八女古墳群や津屋崎古墳群周辺は乱の前後で特に変化は見られないという。
『日本書紀』で、継体「朕は長門より東を制するから麁鹿火は筑紫より西を制せ」等とのたまわれておられます。ヤマト王権中心主義からすれば、筑紫国造(君)磐井は単なる地方豪族であるはずで、長門より東を制する必要はない訳です。なぜならそこはヤマト王権のテリトリーのはずだから。
つまり、どういうことかというと、
筑紫君は本州四国にもテリトリーを持っていた、九州倭国王かそれに近いかなりの権力者
継体は元々よそ者 (応神5世という何処の馬の骨。大和に入るのにも20年も掛かっている)
更に。
磐井の子の筑紫君葛子は命乞いに「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」を物部麁鹿火に差し出している。戦いの直前の継体の発言より、取り分は麁鹿火が好きにしてよい事になっている。筑紫より西は継体関西王権のものにはなっておりません。
大戦争しているにも関わらず、たった一つで済むというのもおかしな話だが。
しかし、負けた筈の地方豪族ゴトキがなぜ朝廷直轄であるはずの屯倉を所有し、それを勝手に差し出す権利があるのでしょうか?
つまり、
- 筑紫君は朝廷の直轄領である屯倉を所有したり、他者に分け与える権利を有する権力者である。
と解釈できる。倭王クラス以外になにがあるだろうか。
本題の妄想に移る。
麁鹿火(あらかい)はソカヒと読める。漢字を変えて蘇我火。筑紫君の子の筑紫火中君と筑紫火君の兄弟のどちらかは蘇我氏なのではないか。古墳の作りは良く似ている。
出雲、長宗我部、香須賀部(春日部)、蘇我、横須賀など蘇我氏関連の地名が全国的なのも、九州海軍の安曇氏と繋がりが深いからこそ可能ではないのか。
8世紀の『記紀』の編者は、筑紫君が蘇我氏系の息子に九州倭国の印鑰・屯倉の一部を譲った出来事を大袈裟な乱として創作した。
どっちみち物語として倭国や豪族、氏族を叩き潰すなり消して天皇を頂点にしなければならないわけですけど、「筑紫君磐井や蘇我氏は歴史に名を遺す価値のある超大物な倭国の中心人物たちだったからそう改竄した」、んではないでしょうか。