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西嶋定生『邪馬台国と倭国 -古代日本と東アジア-』吉川弘文館 その2

その1西嶋定生『邪馬台国と倭国 -古代日本と東アジア-』吉川弘文館 その1 - chayarokurokuroの読書ブログの続きです。だらだらと引用メモ。

倭国王帥升等から倭国大乱、卑弥呼の共立


後漢の安帝即位の年(107)に倭国王帥升朝貢し、そこから倭国は70~80年ほど男王の時代が続きます。
後漢王朝ではそのちょうど同じ年の107年に中国西北部羌族=チベット族が大反乱を起こしたのをかわきりに、周辺の遊牧騎馬民族の中国や朝鮮半島への侵入が相次ぎ、鎮圧の為の多額の軍事予算が発生。歳出カットの俸給減額と歳入増加を見込んだ増税などで国内政治は次第にガタガタになっていきます。
後漢皇帝の権威は失墜し、冊封体制の国際的秩序は乱れ、それは倭にも伝わりまして178年頃に倭国大乱が起こり、数年間続きます。
181年、倭国は大乱を治めるべく女王卑弥呼を共立させました。

後漢王朝の政権崩壊


この辺から三国志の世界に突入。
後漢霊帝が189年に死去、袁紹により宦官が皆殺しにされ、董卓孫堅らが洛陽に集まり始める。
董卓と諸将との間に争いが勃発し、董卓は洛陽を焼き払って、献帝を抱えて長安に逃げる。後漢王朝の政権はこれで事実上崩壊。



遼東公孫氏の帯方郡の設置


190年、董卓により遼東太守に任ぜられていた公孫度(こうそんたく)が、董卓長安への逃亡により自立政権を作ります。
204年に公孫度が死去し、息子の公孫康(こう)が跡継ぎ、楽浪郡(平壌 付近)の南方(ソウル付近)に帯方郡を設置します。

倭・韓の帯方郡への服属


三国志魏志韓伝に「是後倭韓遂属帯方」という記述があるという。公孫康帯方郡の設置に伴い、部下の公孫謨(ぼ)と張敞(ちょう・しょう)らを派遣し韓・ワイを平定。これにより倭国と韓(三韓=馬韓辰韓弁韓)は帯方郡に服属することになったという。
卑弥呼の共立は181年、公孫康帯方郡設置は204年ですので、卑弥呼後漢王朝から離れて帯方郡の公孫氏政権に服属したことになる。



公孫氏は強国だった


公孫氏は、遼東・玄兎・楽浪・帯方の四郡と、山東半島の東萊(とうらい)地方に営州刺史を置き、東は高句麗と夫余に勢力を及ぼし、西は烏丸にも影響を与えていた強国だったという。
後漢の後ろ楯を失っている倭の卑弥呼は、強国の公孫氏に付くことが得策だと考えたのだろうと著者はいう。

2代目公孫康のあとは息子らが幼い為に、弟の公孫恭が3代目として継いだ。
228年、2代目公孫康の次男の公孫淵が、叔父である3代目公孫恭から政権を奪い取り、4代目になる。
4代目公孫淵には兄・公孫晃がいたらしいが、魏に人質として出されていた。

領土を拡げ上昇気流に乗ったかのように見えた公孫氏も、三国の渦に巻き込まれて行きます。
204年に公孫康帯方郡を設置した頃から後を見ておきます。

三国に翻弄される公孫氏


  • 208年に赤壁の戦い
  • 220年に曹操が死去。息子の曹丕後漢に変わって魏の皇帝になる。
  • 221年に蜀漢建国。
  • 222年に孫権が呉を建国。中国の三国分立。
  • 226年に文帝(曹丕)が死去。明帝即位。
  • 228年に公孫淵が叔父から政権を奪う。
  • 230年に魏は公孫淵を車騎将軍に任じる。

この辺から公孫氏は魏と呉の板挟みになり、滅亡の道に進んでいく。

232年、呉は魏の背後を突く為に公孫氏と接触をはかり、遼東に将軍の周賀ら使者を出す。公孫淵は呉に服属の申し入れをするため遣いを随伴させる。魏がこれを察知し、襲撃して呉の将軍・周賀を殺害。公孫の遣いは逃れて呉の首都建業(現・南京)に到着し上表文を提出。公孫淵を幽州と青州の2州17郡170県の封国とする燕王冊封した。

この後、公孫淵は呉を裏切り魏に日和見る。詳細は省略。

  • 233年、魏は公孫淵を大司馬・楽浪公に任じる。
  • 234年に蜀の諸葛亮の死去に伴い蜀軍退去。魏の司馬懿(い)は軍を洛陽に引き揚げた。

途中省略。

公孫氏滅亡と卑弥呼の魏への朝貢


238年に結局、魏の司馬懿公孫淵を攻撃、一族や官僚らが大虐殺され公孫氏は滅亡した。
その翌年の239年、公孫氏の後ろ楯を失った卑弥呼は早くも魏王朝朝貢をし、服属した。

卑弥呼は古臭く非論理的な鬼道なんぞで民をたぶらかすロクでもない魔女かと思いきや、なかなか国際情勢を上手く読める、さばけたキャリアウーマンのようです。



なぜ魏は倭国に格別な処遇「親魏倭王」を?


魏王朝が「親魏○王」の爵位を与えて冊封したのは、229年クシャン王朝の大月氏国に対する「親魏大月氏王」と、239年の卑弥呼の「親魏倭王」の2つのみ。

月氏の場合は、227年に蜀漢劉禅涼州月氏・庸居の地方諸国がタッグを組もうと申し入れをしたことに対する対応で、大月氏はそれら諸国の背後を突ける位置にあるからだという。



一方で卑弥呼の倭の場合はというと、魏が勘違いして倭国の位置を会稽(かいけい)郡東冶(とうや)県の東方海中にあると思っていたからだと。福建省福州市の東、つまり台湾の辺り。そこなら呉の背後を突けるぞと。邪馬台国だけで7万戸、倭国全体で15万戸以上の大国だと考えられていたとある。

確かに中国の歴史書倭国の位置を会稽を基準に書いていたりする。遣唐使の南方ルートを昔から使っていたのかというような…



三角縁神獣鏡の問題点


三角縁神獣鏡卑弥呼が魏から100枚貰った鏡だとする説があるが、

  • 中国から一枚も出ていない
  • 図柄の各要素は華北のものではなく江南系、魏ではなく呉系のもの
  • 三角縁神獣鏡の幾つかには「海東に赴いてこの鏡を製作する」という意味のことが書いてある

などの理由により、舶載鏡ではなく、魏鏡でもなく、渡来の呉人が日本で製作したものだろうと言っている。
他の資料によると日本で500枚以上出土しているそうで、ほぼ国産の大量生産品では。



長くなるのでここまで。他にも7世紀以降の「日本国の出現」など、東アジアと中国史から見た面白い論考がたくさん載った為になる本でした。