chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

大伴金村と加羅の伴跛国、継体天皇と弁辰古資彌凍国

筑後国風土記に次のような文がある。

士の怒り未だ泄まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す、と。古老伝へて云ふ。上妻縣に多く篤疾あるのは、蓋し茲に由る歟か。

磐井の乱の言い伝えを筑後の老人が語るシーンだ。
古事記日本書紀では筑紫君磐井はヤマトに討たれて死んだ事になっているが、筑後国風土記では「豊前國上膳縣に遁れて南山峻嶺の曲に終る」となっている。上膳に逃げてそこで死んだのかどうなったのかよくわからない。
ヤマトは悔しさの余り石人石馬を打ち壊し、そのせいで上妻縣の民は篤疾(とくしつ)、つまり重病、身体障害があるのでは、などと呪術のような事を述べている。卑弥呼のマジナイを信じるお国柄を示しているのか。

磐井を討ったのは物部麁鹿火が総大将という事になっている。日本書紀で麁鹿火が磐井を討つ意気込みを述べるシーンで、自分たち一族が如何に天皇を支えてきたかを言うのだが、その一族を思いっきり大伴氏の事として言い間違えているのだ。怪しい…

こちらで熊本の八代にいた火葦北君=刑部靫部阿利斯等の息子の日羅のことを書いた。
日羅は百済の高級官僚をやっていたのだが、大伴金村の事を「我が君」と呼ぶ。
アリシトのアリは蟻臣のアリで、その娘のハエ姫は伴跛国(はへこく)と関係があるのではないかとも。

さて、伴跛国と日羅がいう所の「我が君」=大伴金村が共通しているのは偶然ではないだろう。ことに注目してみる。
伴跛国のはチンバと読み「ビッコをひく」の意味だ。筑後の老人が磐井の乱で壊された石人石馬のせいで上妻縣に身体障害が多いなどと言ったのは、伴跛国に関係のある大伴金村に討たれた事を意味しているのではないか?
ということは、磐井の乱以降の筑後大伴金村の領地になった可能性があると思う。が、火葦北君の息子日羅が我が君と呼ぶ大伴金村であるので、乱後の火国の勢力北上はそういう事だと考えられるのではないか。
磐井の乱は筑紫君と火君の単なる同族内の内輪揉め。
中世の九州三国志時代、大分の大友氏は大伴と漢字が違えど筑後を押さえようと必死だったのはそうした理由もあるのかしらん。
大伴とか物部とかサラッと書いているけど720年前後に完成した記紀にその名前で載っているからであって、まだその氏姓は無かったよね、たしか。一体誰の伴なのかというのが問題。



物部麁鹿火大伴金村が頑張って口説き落とした越国の大王ヲホドだが、正体不明だ。何しろ継体なんていう継体を怪しまれるような素性です。ちょっと面白い説を書いているブログを見つけたので貼っておきます。
http://waikoku.sakura.ne.jp/yamato9.html
継体の出身は越国とされているが、福井県ではなく実は弁辰古資彌凍国ではないかと。弁辰コシ・ミト国。コシは越で、ミトは水戸、三門、港、という説。更には継体は架空ではとされている。面白いかも。

日本書紀の継体紀には任那割譲問題で政治的なやり取りが書いてある。そもそも任那日本府なるものがあったのか(日本自体が無かった時代だが)という問題もあるが、加羅百済新羅に統合されていく、いわばひとつの緊迫した東アジアの朝鮮情勢においてですね、筑紫君磐井の苗字が阿倍説もある中において、それぞれがどう関わっていたのかを改めてしっかりと見直すのは重要との認識でごじゃいます。以上。