2022年、寅年。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m
初詣に行って来ました。二社。一社目は福岡県久留米市の水天宮本社です。
この2年ほどでけっこう神社を周りましたけど、平日土日に行けばどこの神社もスカスカです。
正月そうそう渋滞に巻き込まれ、人混みのなか苦労して行かなくても良いんじゃないか…などと思いつつ。寒くてバイクのバッテリーも上がりそうなので充電を兼ねて、いざ詣でるぞよ!
場所
すぐ横を筑後川が流れている。
御祭神
アメノミナカヌシは日本神話に登場する神で、『古事記』の造化三神の一柱。平安時代の『延喜式神名帳』にはこの神を祀る神社は載っていないという。中臣氏の権力安定化の為に改竄云々、と色んな所に書かれていたりする。江戸期の平田篤胤の神道では最高神とされる。
安徳天皇は歴代天皇で最も短命、源平合戦の最中に6歳で壇之浦に入水(『平家物語』)。
1178年12月22日〈治承2年11月12日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日)は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉
その時、安徳天皇を抱えて一緒に入水したのが二位の尼。
最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)は安徳天皇を抱き上げ…。
『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)と言っているという。
按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)
は、父が藤原公通。出自については諸説あり、大和石上神社祠官の娘とも伝わる。その末裔が、ここ水天宮の宮司・眞木(真木)氏。
幕末の尊皇攘夷派、真木和泉守保臣(やすおみ)はこちらの水天宮の第22代の宮司で、倒幕運動の禁門の変(蛤御門の変)で失敗し自害している。
高倉平中宮とは、平徳子(たいら の とくし/のりこのこと。第80代高倉天皇の皇后。
1155年〈久寿2年〉- 1214年1月25日〈建保元年12月13日〉)は、日本の第80代天皇・高倉天皇の皇后(中宮)。女院。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。
御由緒
安徳天皇の母である高倉平中宮に使えていた女官、按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は寿永4年(1185)、3月24日壇ノ浦の戦いの後、千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れて来て、建久初年(1190)初めて水天宮を祀った。伊勢は後に剃髪して名を千代と改める。周辺の民に請われ加持祈祷などを行っていたところ、霊験あらたかであったため、尊崇するものが日増しに多くなり、尼御前と称えられ、当初、水天宮は尼御前神社と呼ばれていた。
千代女は、中納言 平知盛(とももり)卿の孫、平右忠(すけただ)を養い後嗣とし、現在に至るまで 子孫が代々宮司職をつとめている。第22代宮司である眞木和泉守は幕末の激しい動乱期に勤王派の旗頭として、王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者である。
その後、千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘にして、墳墓は久留米市内アサヒシューズ株式会社の正門前に在り、奥津城祭(墓前祭)は毎年春に奉仕されている。
古来より水の神として農業・漁業・船舶業者のみならず、子供の守護神、安産、子授の神としても人々の信仰が篤く、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当宮へ御祈誓遊ばされ御報賽として御安産の後、鳥の子餅を御内々に御献供遊ばされた。このように御霊験あらたかにより、明治元年10月3日、禁裏御祈祷所(勅願所)に仰せ付けられた名社である。
真木和泉守が藩政改革の建白を久留米藩主に提出したら逆に謹慎させられ、筑後市水田に蟄居させられ住んでいた家の復元。
辞世の句が書いてある。「大和魂」ですと。観念右翼 + ちっごのにやがりもん。最強。
神紋は椿。筑後の椿原氏などは関係あるのかな?
本殿右側から。
本殿横に植えてある椿。王昭君は中国四大美人の一人・「王昭君」にちなんで付けられた品名のようだ。紀元前1世紀、匈奴の呼韓邪単于に嫁入りした漢帝国の女性。
本殿左側。隣は筑後川。
水天宮は東京の日本橋をはじめ、全国にある。ハワイにもあるんだとか。
世界の海は繋がっております。