chayarokurokuroの雑記ブログ

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「大善寺玉垂宮」福岡県久留米市(旧・三潴郡) 前編

福岡県久留米市大善寺町宮本(旧・三潴郡大善寺町)にある 大善寺玉垂宮(だいぜんじ・たまたれぐう) へ行ってきました。



場所

旧住所が「三潴郡 (みずまぐん)」。『記/紀』の景行紀に登場し、八女津姫(やめつ・ひめ) の居場所を教えた 三沼君(みぬまのきみ) が居た所だと考えられております。筑後川下流の水田地帯です。

考古学で弥生時代後期初頭(紀元1~100年頃)の基準土器になっている高三潴式土器の三潴です。
また、いわゆる『魏志倭人伝』にはスサノオを連想する「投馬国」が出てきますが、それを「ツマ・こく」と読んで、朝妻・上妻・下妻・三潴など「ツマ」の付く地名が多くある久留米周辺と考える人もいます。



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3ヶ所にピンを差した。



弥生時代はまだ有明海が深く入り込んでいた。



御祭神と由緒

御祭神

高良大社と同じです。



由緒

公式サイト から引用

大善寺玉垂宮の創建については謎が多く明らかではないが、景行天皇の皇子国乳別(くにちわけ)皇子を始祖とする水沼君が当地を治められたとき、その祖神を祀ったのが玉垂宮の前身と考えられ、平成一五年(二〇〇三年)に一九〇〇年御神期大祭を終えた古社です。(社伝)

後漢時代、卑弥呼共立より前には既にあったのかな。



藤大臣は神功皇后三韓出兵に大功があり、玉垂宮と神功皇后との関係が深い。『吉山旧記』によれば、藤大臣は仁徳天皇五五年に賊徒退治の勅命を受け、この地に下り筑紫を平定し、同五七年(三六九年)高村大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫の政事を行ったが、仁徳天皇七八年(三九〇年)にこの地に没し祀られ、高良玉垂宮と諡(おくりな)されたと伝えられます。

天武天皇の白鳳元年(六七三年)に三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧安泰をして祭神を祀らせ、そばに一宇の精舎を開基して御廟院高法寺と号しました。後に、高法寺は延暦年間天台宗となり、弘仁五年(八一四年)に嵯峨天皇の勅命により、殿堂、楼門、回廊などを新たに建立し、善美を尽くしたので大善寺と改められました。盛時には衆徒四五坊、社領三〇〇〇町を有していたと伝えられます。


中世期には、大荘園三潴庄の総鎮守社として朝野の尊崇を集め、建徳元年(一三七〇年)には征西将軍懐良親王への奏聞をへて「玉垂宮絵縁起」二幅(国指定重要文化財)が寄進されました。

戦国時代には度々の兵乱により荒廃し、元亀・天正の大乱で本殿、末社等悉(ことごと)く焼失しましたが、慶長六年(一六〇一年)筑後に入国した田中吉政によって復興がなされました。徳川吉宗大善寺領として三百石を寄進し、同九年には梵鐘を、同一二年には鰐口を寄進二代田中忠政も元和四年(一六一八年)に表参道の鳥居を寄進しています。

有馬藩になってからは、慶安四年(一六五一年)に有馬忠頼が 「高良玉垂宮絵縁起」 二幅を寄進し、安永四年(一七七五年)には銀弐貫五百目が下賜され楼門が再興されました。

明治二年(一八六九年)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、神宮寺だった大善寺は廃され、玉垂宮のみ残って現在に至ります。



大善寺の地名を昔は高村と言ったと。高牟礼ではないか。高良山も高牟礼だ。だが「高良」の名前の由来は高良山の元の主・高皇産霊神に因んでのことだと「高樹神社」の由緒にあったが…

賊徒退治で筑紫平定し、筑紫の政事をここで行っていたということは、賊徒(桜桃沈輪 ゆすらちんりん)は元の筑紫の王なのだろうか?
その頃ここが筑紫(倭国)の都だと考えて良いのか。古田武彦派はそのように言っている。万葉集の句も引用しつつ。



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すぐ横を「広川」という川が、東の奥八女から西の有明海へ流れている。広川沿いに八女古墳群があり、有明海側が古い。筑紫君磐井の墓といわれる6世紀の 「岩戸山古墳」 やその後世代の 「乗場古墳」 など、上流方向に連なっていく。



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「傘」は「八十 (ヤソ)」の字を含む。「八十梟帥(ヤソタケル)」 や 「物部八十軍団」 と関係あるだろう。「笠」と書けば太宰府の「御笠」や、熊本の「武磐龍命」との連想。



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東の上流方向



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「玉垂宮と鬼夜」
毎年1月7日に、長さ12m・重さ1.2トンの大松明(たいまつ)5基に火を付けて本殿の周りを2周する「鬼夜」という火祭りが行われる。(同じ祭りが筑後市熊野の熊野神社でもある。こちらは3基。)
日本三大火祭りの一つ。藤大臣が大松明をかざして 桜桃沈輪(ゆすらちんりん) という賊を討ち滅ぼしたことに由来。高良山から高皇産霊神を下ろして高良玉垂命と交代した話と関わる。

桜桃沈輪は高木神の末裔や一族・部族か信奉者ということになるのだろうか。九州倭国内での王朝交代劇があったと私は考えている。



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門の両脇に坂本社。高良玉垂九躰皇子の坂本命だ。坂本臣のルーツだ。

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次回 へ続く