chayarokurokuroの読書ブログ

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部民制と中国南北朝と倭の五王

日本の古代に部民制(べみんせい)部民制 - Wikipediaというものがある。
ヤマト王権の制度であるとされ、

  1. 物部や馬飼部など仕事に関わる部門
  2. 蘇我部や大伴部、額田部など豪族などの集団の部門

と大きく2つに分類できる。
これが始まるのはだいたい5世紀末から、広範囲に整備されるのは6世紀から。律令制の実施に伴い廃止される。
磐井の乱後に大和王権は列島各地に拡げた」とある。はい出た、磐井の乱。またお前か。



ところで卑弥呼の時代は中国は三國志の時代です。卑弥呼華北中原の魏に「宜しくお願いします」とご挨拶に行きました。「遥々ご苦労である。親魏倭王に奉ずる。」とか何とかでお目通りにかなう。
そのあと、魏は司馬炎下剋上で王朝が西晋に代わる。
倭国では卑弥呼の死後に男王が立つが荒れて、臺與という13歳の女王が立つ。
その後、倭国は中国史からしばらく消える。
次に中国史倭国が出てくるのは「倭の五王」と呼ばれている5人の王たち。名前が渡辺・松浦党みたいに漢字一文字で、正体不明。相手国は中国の。この宋は華北中原を統一する国ではないのですね。

倭の五王の頃の中国は南北に王朝が分断した時代で、中原を北魏という騎馬民族鮮卑族の拓跋氏が建国した国が統一。386年~534年。途中も戦乱で東晋やらに変わってるのか何やらガチャガチャしてわかりにくい。
一方、南は。劉氏が建てたので他の宋と区別をつけるために劉宋と言ったりする。420年~479年。
そのあと南朝は斉と梁などを経て、 が中国を再統一するのが581年。隋の滅亡が618年。目まぐるしい。

部民制の話しに戻ると、「なんとか」は北魏のシステムだと思う。というか多分そうだ。

追記
適当こいた。中国には部曲(ぶきょく、かきべ)という物が漢の時代からあるそうだ。中国・朝鮮・日本で内容が異なる。
部曲 - Wikipedia
追記おわり

鮮卑族は中国風に制度を変更しようとした云々と記述が見られる。このような混乱の為に倭の五王の記録が宋にだけ残っているのかな。



磐井の乱後に部民制が拡がった、というんだから、筑紫君磐井は騎馬民族王朝の北魏への抵抗があったと考えて良いということなのか。だからこその「倭の五王」が南朝にお目通ししていたと。



逸れるが、中国の戦国時代、紀元前329年から100年ほど続くという中国南部を統一する国がありました。王の姓をという。 景行紀の熊蘇はこれを言っているのかな?
倭王が自ら周の太白の末裔だと述べていることが魏書などにある。太白は周の建国者の長男で、太白の国は中国南部の呉。句呉(こうご)とも呼ばれる。紀元前585年頃から約100年続いた。王の姓は姫氏。狗奴国と被る。彼らは入れ墨をし、崇潜りで魚を採る。
華北から蛮族扱いされて「いいもん、どうせ僕たち蛮族だモン」と開き直って国を立てた。
句呉の読み方のコウゴと、神籠石のコウゴの一致、名付け親である歴史家のイタズラでしょうかね。