膳巴堤便 = 穂積巴提か?
膳 巴堤便(カシワデ ノ ハスヒ 又は ハデス)
膳巴提便 - Wikipedia
『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇6年3月(推定545年)、百済に派遣されたとある。この時、妻子同伴で半島へ向かっている。
穂積押山(ほづみ の おしやま)
継体天皇(第26代)の時における任那の哆唎国守(たりのくにのみこともち)または下哆唎国守(あるしたりのくにのみこともち)で、百済への任那4県割譲(支配承認)で活躍した人物とされる。
系譜に関して史書に記載はないが、系図によると父は穂積鎌子、母は阪尾姫(尾治臣勝雄の娘)とされる。 また系図によると、妻は蘇我韓子の娘の弟名子媛で、子に穂積磐弓・穂積巴提がいるという。
前・後者ともに同時代。
前者の膳氏の人物と、後者の押山の子の穂積巴提は名前が似ている。
膳巴堤便=穂積巴提か?
「弟」繋がり
弟名子姫(おとなこひめ)
弟名子媛 - Wikipedia
蘇我韓子の娘で、穂積押山の妻。
弟橘媛(おとたちばなひめ)
弟橘媛 - Wikipedia
穂積氏忍山宿禰=穂積押山か?
まとめると、
また、『古事記』には弟橘媛は次のような歌を歌ったと書かれてある。
「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」 とうたひたまひき。かれ、七日の後、その后の御櫛海辺に依りき。すなわちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。
ヤマトタケルは相武国造の火攻めに合う。
「相武の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」
という意味らしい。火と来て火中と来ますから、火君と火中君に関係あるのじゃないか。弟橘媛の御陵を作って治め置ききとあるので、相武国造は火君か火中君が治めた、ということに一旦しておこう。
追記
「茅」を「弟」と書く例があるらしい。茅は伽耶だろう。加羅。たぶん鉄が取れる。また大伴氏は妄想だが加羅諸国の伴跛国(はへ)にゆかりがある。「伴」繋がりというだけだけど。
追記終わり
ヤマトタケルと磐井
断っておきますが、私は何でも筑紫勢に結んでしまおうという病に犯されています。
ヤマトタケルヤマトタケル - Wikipediaは景行天皇 - Wikipediaの子供の一人。双子の次男。小碓尊(おうす)という名前。兄は大碓という。
小碓尊やヤマトタケルの他に、日本童男(やまとおぐな)や倭男具那命(やまとおぐな)という名もある。
日本書紀では主に日本武尊と書き、古事記では主に倭建命と書く。
仲哀天皇の父。熊蘇・東国征伐を行ったとされる伝説的人物。
景行天皇とヤマトタケルは古事記と日本書紀で内容が異なる。4世紀~7世紀までの日本各地の話を繋いで一纏めにして作られた架空の人物だろうと推測されている。
ヤマトタケル(倭武)が架空の人物とはいえ、モデルとなった人物が何人か居ただろうと思います。
候補者として倭国王と目される筑紫君磐井。または筑紫君の兄弟分の火君、火中君。この人達は装飾古墳の文化を持つ。
武蔵国からその北の陸奥国などに装飾古墳があることと、ヤマトタケルが東征に行った場所が被っていることをもって、その候補者としてそこまでおかしい話ではないだろうと思う。むしろそうでもしないと東北に装飾古墳がある理由がわからない。
陸奥国の「磐井」の地名も繋げられる。膳氏と阿倍氏はお肉とお魚のお食事券配布係として同族で、筑紫君と阿倍氏も祖が同じか阿曇族関係。これで安倍氏が東北にいる理由にもなる。
ヤマトタケルと九州中心主義的の倭国観から、膳氏・阿倍氏・阿曇氏・穂積氏・蘇我氏・葛城氏・弟ナントカ媛・筑紫君磐井・火君・火中君(大伴氏・高橋氏も加え)らの族的繋がりと、九州と関東東北との地域的繋がりが同時に見えて来るかなと思います。
先生、この三文歴史小説、行けますでしょうか!?