chayarokurokuroの読書ブログ

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神籠石を見学してきたメモ

古代山城跡「神籠石(こうごいし)」や朝鮮式山城跡というものが、北部九州と瀬戸内海の本州と四国に分布しております。
畿内には、このような城が安城(たかやすじょう/たかやすのき)ぐらいしかありません。667年に天智天皇が築城とされる。高安城は朝鮮式山城跡といわれるもので、白村江の戦い(663年)の大敗北以降に百済の官僚らと共に天智天皇により作られた城の一つとされる。住所は奈良県生駒郡平群町大阪府八尾市にまたがる高安山の山頂。

朝鮮式山城はこの高安城(667年)の他、福岡県の大野城佐賀県基肄城(きい)と山口県長門国の城が665年に、讃岐国屋嶋城対馬国金田城が667年に築城など数えるほどですが、築城記録が日本書紀に載っています。
朝鮮式山城は白村江で負けた直後に防衛の為に作られた。

一方、神籠石と呼ばれる古代山城は全国16ヶ所、福岡県の高良山神籠石(八葉の石畳)、女山(ぞやま)神籠石、雷山神籠石、鹿毛馬神籠石、杷木神籠石、御所ヶ谷神籠石、唐原山神籠石、山口県光市の岩城山神籠石、兵庫県たつの市の播磨城山神籠石、岡山県総社市の鬼ノ城(温羅遺跡)と岡山市の大廻小廻山城神籠石、香川県の讃岐城山神籠石と永納山神籠石などなど、北部九州と山口、岡山と香川に偏って分布し、記紀に載っておりません。
倭国が作ったんだろう?

朝鮮式山城と神籠石では、工法などに違いがある

  • 朝鮮式山城は自然の石を上手く積み上げて城壁にしてある(野面積み ノズラ)が、
  • 神籠石は綺麗に切った石を積み上げるか並べてある(割石積みと切石積みと布積み等)

という大きな違いがあるようです。また神籠石には城門の門礎石がない。また瓦なども出てこないので早い時代に作られたのでは?とも。
神籠石系山城は、いつ誰が何の目的で作ったのかが分からない。熊本のトンカラリンなんかもピシャッと切った石がエジプトのピラミッドの内部構造的と言われる作りで組んであるというが、あんな感じ。どんな感じ?


神籠石は九州王朝説派の宝刀

そんなわけで、神籠石と呼ばれる古代山城跡(と白村江以降に改築・建造された朝鮮式山城跡、高安城大野城などの分布の具合)は、私のような九州王朝倭国説のバイアスの掛かった色眼鏡で歴史を見たい派にとって、皇国史観ヤマト王権捏造派・マキムク観光協会の陰謀を粉砕できる武器になりうる!と言うことでございまして、九州派はこれを良く取り上げたがります。
「なんでも百済」「なんでも大和朝廷」「なんでも白村江以降」にしたがる日本古代史文献学者は嘘っぱちだ!税金の無駄だ!智に不誠実だ!神と先祖への冒涜!なので、ただちに学者を辞めてヤマト真理教の教祖になるべきなのです!



と鼻息荒く遠吠えして気が済んだか、続ける。

本来の「神籠石」が指すもの

神籠石は本来、古代からのアニミズム的信仰対象とされてきた天然の岩を指し、磐座(いわくら)と呼ばれるものを指していた。しかし高良山神籠石の発見などで神籠石論争というものが歴史学界で起こり、喜田貞吉が古代山城跡を指して「神籠石」と命名。これに対して柳田國男らの反対もあったが定着してしまい今日に至ったという経緯がある。

さて。写真は後程個別にアップするとして、見てきた神籠石を。

  1. 佐賀県武雄市橘町大日の「おつぼ山神籠石」
  2. 佐賀県佐賀市久保泉町大字川久保の「帯隈山(おぶくまやま)神籠石(おぶくまやま)」
  3. 佐賀県三養基郡(みやき)基山の「基肄城跡(きいじょう、きいのき)」
  4. 福岡県みやま市瀬高町大草の「女山(ぞやま)神籠石」 女山(ぞやま)神籠石


女山(ぞやま)神籠石

順番が前後するが、数年前に見に行った女山(ぞやま)から。
公園として整備されているので回りやすいが、何処に神籠石があるのか分からなかった。夕方だったので退散。そのうちまた行く。
ここは卑弥呼邪馬台国の候補地の一つである福岡県山門郡瀬高にあります。現在は住所が山門郡からみやま市に変更されてしまった。神籠石領域内に古墳(6世紀だとか)があり青銅器などが出土。「掘るとそこいら中から勾玉が出てきた」という個人的に信頼できる情報筋の体験談の証言もあるので、少なくとも古墳時代もしくは古くは弥生時代から何らかの拠点だっただろうと思います。

「おつぼ山神籠石」

佐賀県武雄市橘町大日にあります。おつぼ山は杵島山(きしま)の西側にある低丘陵で、周りは田んぼ。大雨が降ると山以外は水没するとか。
宗像三女神の市杵島姫の2文字を含む山。なんでしょうね?
肥前(佐賀・長崎)と肥後(熊本)は肥の国で、陸だと福岡県を経由するので有明海を使わないと直通出来ない。「武雄」は熊本の健緒組武内宿禰に関連していて、昔から重要な拠点の一つだったのだろうと思う。
「肥」は「月」なんで対馬や「膳氏」と関係あるのかな?ツキで「杵」、杵築や臼杵。キネで紀(キノ)。辰砂や鉄鉱石を砕くのに使う。武雄の隣で佐賀の真ん中の小城(おぎ。小城羊羹のおぎ)に三日月町があります。ミカヅキのミカは筑紫君磐井の先祖の甕依姫武甕槌のミカと重なる。佐賀県ではないが、先の女山(ぞやま)の南に位置する福岡県大牟田の三池炭坑の炭坑節「月が出た出~た♪」と月が出る。関係ないか…

おつぼ山の住所「橘町」に関連するのか、橘奈良麿が落ち伸びた伝説があったりする。カッパの伝説がある。近所に高橋という住所もあります。タチバナとタカハシはセットなのか。筑後も大分も高橋と立花のセット。橘氏藤原不比等の妻の縣犬飼三千代から始まった筈だが、ここは縣犬飼氏の本拠地か何かですかね? 和泉式部の生家もある(どかにでもあるか(笑))。また近くに玉島古墳など。たいてい神籠石の近くには古墳がある。

おつぼ山神籠石を見たい場合は、駐車場があるので車で行ってOK。駐車場は目立つ看板がある。その裏山がおつぼ山。山の近くまで行けば案内板が立っている。山の中は一応人が歩ける獣道程度には整備してあるが、山を歩く格好で。一周が徒歩で約45分~1時間。道の最後が沼と草むらで塞がれていて、斜面を滑り降りて会社(山崎産業さん)の敷地内を通らせて貰いました。
山の斜面をグルリと囲むように、ピシャリとした綺麗な断面で長方形に切られた石(神籠石)がピシャッっと並べて置いてある。何段か埋まっているのか知らん、一段しか見えなかった。水門や池があるが、城かと言われたら微妙。



帯隈山(おぶくまやま)神籠石

高速道路なら長崎道の「佐賀大和」で降りる。すると直ぐに「肥前国庁跡」とその併設の資料館がある。横山三国志に出てきそうな門が復元してあり、建物跡の柱の礎石だけが草原に埋まっている。

そこから5分ほど走らせると、近くに嘉瀬川(カセガワ)が流れ、わきに肥前国一之宮(なのに県社で規模も小さな)與止日女神社、またの名を河上神社。樹齢1400年の巨大な楠木を抱えて質素に佇む。欽明25年(564年)創建とされる。
與止日女ヨドヒメと読み、なんでも神功皇后の妹らしい。また同時に豊玉姫でもあるとする。大阪の「淀川」や淀姫神社のヨドはこの與止日女から来ているという。世田姫(ユタ)なる別名も。「マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ~♪」の琉球ユンタやシャーマンのユタか。鬼道使いの歌姫か。卑弥呼の後継か。

別名にある河上神社のカワカミは『日本書紀』に川上梟帥(カワカミタケル)、またの名を熊襲梟帥として登場する人物に由来し、與止姫はその妹でもあるという伝説もある。川上梟帥はヤマトタケル(架空だろう)が女装して宴会に潜入し、寝室にお呼ばれした際に斬り殺した相手。
松野連系図』には川上梟帥は「取石鹿文(とりいしかや)」という名前で、倭国王の末裔として載っている。『先代旧事本紀』みたく「偽書」と断りつつ引用されることもなく、学者からガン無視される系図だ。古代史本で言及しされてるのを見た事がない。不都合なのかトンデモか。
後漢書』や『魏史倭人伝』に出てくる倭国王帥升は周の太白の末裔だと自ら語っており、太白の末裔が春秋戦国時代の呉で王をやっていた。姓は姫(き)氏。呉の最後の王「夫差」の末裔が熊本の菊池に移り、更に福岡の糸島に移って倭王になっているとする。歴史的に国学派らは倭王が周王家末裔や中国人だと困るらしいく、これを嫌った。薩摩の島津家ら惟宗氏 は漢王家末裔の自称。これも困るのかね?
松野氏は倭の五王の後に続く「牛慈」なとき、欽明天皇の頃というが、王を降りて夜須評督(福岡県の朝倉の長官)になったという。そこで「松野」を名乗る。「松」は「木の公」だ。松尾大社秦氏で松。
して、呉と同盟していたの王姓は氏ですので「熊襲」な訳です。熊野大社紀州で「き」繋がり、武内宿禰は紀武内宿禰と言うこともあり、その子孫に「紀角宿禰」もいる。そういう訳でか佐賀市神埼市の周辺をさるくと「紀」にまつわる名前が良く目に飛び込んでくる。「紀の国」と書いたダンプカーとか。ウホッ、運転手がまた無茶苦茶ハンサム。どうなってるんだ、ここは。

それより帯隈山神籠石はどうなったのか!話を戻す。
とにかく帯隈山の場所が分からない。何の標識も出ていない。地図を見たら負けた気がするので見ないでウロチョロしてみる。
近所には「日の隈公園」。継体天皇以降で墓の場所に「檜隈なんちゃら」と出てくるけど、佐賀にも似た地名があるわけね。
葉隠れ発祥の地」でもあると、「葉隠」の文字が隠れもせず町中に散らかる。
江戸時代の佐賀鍋島藩山本常朝は隠居して金立(きんりゅう。長崎道の金立PAのあの金立)という場所に住まいます。そこで『葉隠』を書いた。
そのちょっと前に鍋島藩飛び地の長崎市深堀にある鍋島深堀家と長崎乙名(町年寄り)の高木氏が悶着する深堀事件が勃発しています。赤穂浪士の事件の火付け的事件。幕府お墨付きで後に長崎奉行にもなる高木氏は、元は高来県の藤原氏らしい。高良大社の高木神(タカミムスビ)の高木か。ほとんど神に近い。
威張り腐ったこの長崎の大豪商高木氏の子分が、鍋島深堀藩筆頭家老と道ですれ違いざま「雪溶けの泥が掛かったぞ」と因縁を付け言い争いとなるも、仲介者が入って一旦その場はおさまる。後日、高木氏の子分ら10数名が深堀家の蔵屋敷に乱入し狼藉を働く。ヤクザもんと言えども武家屋敷に押し入るというのが凄い。さらに後日、長崎護衛で疲労している所にこのような面目丸潰れの事件を起こされ完全にブチギレした鍋島深堀家藩士らは、切腹覚悟で高木氏屋敷に討ち入り、町年寄り高木彦右衛門とその子分の剣客ら合計9名を斬殺。そしてその場で切腹や御沙汰で切腹、五島に島流しなどを受ける。
そういう訳で『葉隠』は武士とは死ぬことと見つけたり

高良大社には元々「高木神(タカミムスビ)」がいたのだが、高良玉垂れが乗っ取りしたという。高木氏をブッタ斬りにした深堀事件と高良大社乗っ取り事件を、『葉隠れ』は何か匂わしているんだろうか。
高良玉垂の正体とは…

帯隈山神籠石探しは続く。
全然案内看板が出ていないので分からず、相変わらずウロつく。
関行丸古墳(せきぎょうまる)」と「神籠石池」と書かれた矢印と菊の御紋の羽織をまとうタダナラヌ地蔵さんを見つける。その地点から「神籠石池」の方に見える低丘陵が帯隈山だった。池で六角の傘を立てた二人の老が釣りをしていた。亀仙人だろうか。神籠石っぽいものはあったといえばあったが、ほとんど整備されておらず見学を断念。
地蔵さんの示す関行丸古墳は直ぐ先にある。神籠石の近くには決まって古墳がある。

古墳の正面に「白髪神社」の案内板矢印。白髪と言えば、白髪の天皇がいましたっけね?白子でしょうか。清寧天皇=白髪武広国押稚日本根子天皇。西暦444年頃とWikipediaにある。
こちらの神社は近江国から白髪大明神の分霊を古い時代に勧請、猿田彦を祀る。云々。
白髪神社の更に奥の裏山に高良大社宮司家だという神代(くましろ)氏の代々の立派なお墓がたくさんあった。ここでも高良大社に繋がる。「神」と書いて「くま」と読む。アイヌっぽい。猿田彦だし国津神でしょうか。熊襲の熊でもある。紀氏か。
アイスの「しろくま」は「くましろ」をひっくり返したのかな?鹿児島県の発祥と。考案者不明でメーカーが複数。

ということで、帯隈山(おぶくまやま)神籠石は駐車場もなく、山も整備されていないので探索は難しい。ですが近所には他にももっといろいろ面白いものがあります。



基肄城(きい)跡

ここは神籠石ではなく、白村江以降に築城したことになっている、我が国最初の本格的な朝鮮式山城跡で、歴史的学術的に極めて重要ですって奥さん。国史定の特別史跡
鳥栖筑紫野道路を城戸インターで降りて「南門跡(南水門跡)」だけ見てきた。数年前の集中豪雨で土砂崩れがあり行き止まりになってはいたが、いきなり目に飛び込んでくる門の石塁のインパクトは圧巻。朝鮮式ということで自然の石を組む工法で、3階建てほどの高さまで積んである。これまで見た神籠石は丁寧に四角く切った石が一列に並ぶものだったので違いが分かる。何より規模が凄い。
佐賀県三養基郡基山と福岡県筑紫野市にまたがる山をまるごと城にしてある。佐賀の脊振山(せふり、せぶり)の一番東側の標高は400m。山頂まで徒歩で40分掛かる。山頂からは博多湾もその周辺の平野も大宰府も小郡も久留米も全部見渡せる。ここは倭国の鬼国の本拠地だろうか。完全にヤバい。

登山するつもりの格好で行かないと厳しいかも。土砂崩れで登山道も行き止まりになっているとネットの情報がある。駐車場もあるのかないのか。次回再チャレンジ。