佐賀県三養基郡(みやきぐん)基山(きやま)町大字小倉の朝鮮式古代山城『基肄城 南水門』(きいじょう、きいのき)跡を見て来ました。
朝鮮式古代山城
自然の石をそのまま積んだ「野面積み(のづらづみ)」という工法。
【リンク】
「朝鮮式山城」と「神籠石(こうごいし)系山城」
- 神籠石を見学してきたメモ - chayarokurokuroの読書ブログ
- 福岡県飯塚市鹿毛馬『鹿毛馬神籠石』 - chayarokurokuroの読書ブログ
- 福岡県行橋市/京都郡『御所ヶ谷神籠石』 - chayarokurokuroの読書ブログ
- 佐賀県武雄市橘町『おつぼ山神籠石』 - chayarokurokuroの読書ブログ
- 佐賀県佐賀市『帯隈山神籠石』『白鬚神社』 - chayarokurokuroの読書ブログ
- 福岡県久留米市『高良大社』 - chayarokurokuroの読書ブログ
- 向井一雄『よみがえる古代山城 -国際戦争と防衛ライン-』吉川弘文館 - chayarokurokuroの読書ブログ
基肄城とは
きいじょう、またはきいのきと読みます。
660年に滅亡した百済の官僚や将軍らは、再建を目指して運動を起こします。倭国はこれに乗り、倭・百済軍 VS 唐・新羅軍の戦争に発展するのですが、663年の「白村江の戦い」で倭・百済軍は大惨敗します。
基肄城(きいじょう)は665年に百済人らと大野城などと共に作られたことが日本書紀に書かれてある。「野面(のづら)積み」と呼ばれる自然の石をそのまま積み上げて石垣を作る工法の特徴などから「朝鮮式山城」と呼ばれます。
これに対して「神籠石系山城(こうごいし)」と呼ばれるものは、記紀等に記録が一切なく、誰がいつ何の目的で作ったものか分かりません。
上に貼った投稿リンクの写真に見られるように、石をキレイに切り揃えてレンガのように積み上げたり列ねたりする特徴の違いがあります。
福岡県行橋市・京都郡の「御所ヶ谷神籠石」の例
【基肄城の構造】
- 基山(きざん:標高約405m)とその東峰(標高327m)とを土塁と石塁で囲み、その内側の尾根上に建物を配置。
- これまでに約40棟の建物が確認されており、主に武器や食糧などが蓄えられたと考えられる。
- 現在は、「礎石群」と呼ばれる柱を据えた基礎石を見ることができる。
- 建物に葺かれた瓦や生活容器として使われていたと考えられる土師器・須恵器などが出土。
- 城壁の長さは約4km。
- その途中には推定を含め4ヶ所の城門を備える。
- 南側では谷を塞ぐようにして築かれた石塁に、川の水を流すための水門がある。
- 最近の調査により、同じ石塁においてこの水門のほかに、排水機能をもつ3つの通水溝があることがわかりました。
(公式サイトより抜粋)
(東公園(鳥栖市)から基肄城跡を望む)
今回行ったのは上の図の一番下「南門 水門跡」のみです。
場所
佐賀県の基山にあります。魏史倭人伝に出てくる鬼国はここを指しているのではと言われております。
北の博多湾や大宰府方面、筑紫平野一体を一望できる絶好のポジション。
佐賀県道17号・福岡県道17号の鳥栖筑紫野道路の「城戸インターチェンジ」を降りてすぐ。小さな案内板が出ているので分かるかと思います。
↑は南門水門跡の位置
2年ほど前の大雨で土砂崩れが起きたのか、だいぶん痛々しい感じになっていた
通行止め。工事車両用に道路に鉄板が敷かれている
案内板も汚れております。
土塁跡の登山口か。
城の天守閣の石垣ほどの高さ。
見事。
住吉神社があったようですが、めちゃめちゃに壊れている。
何故か三猿が置いてある。
今回は以上です。
標高400mで一周4キロの山城を見学する格好と体力の備えがいるな…
ここは完全に戦略的に絶好の場所ですね。筑紫平野を取り囲むように山城を築いてるのが凄い。7世紀より遥かに大昔から利用していた場所だろうと思う。
1周4キロだと熊本城と同じぐらいか。加藤清正が改修した際、7年掛かったという。基肄城も完全に山の上だし規模も大きい。かなり建造に時間が掛かったんじゃなかろうか。
「基肄(きい)」は紀伊と繋がる。佐賀には紀氏の関係が意外と多い。本拠地はこの辺りにあったんだろうか。高良大社や武雄神社の武内宿禰もその母(山下影姫)もその末裔も紀氏や紀角氏だとあるし。逆になぜ和歌山に居るのかが謎…