福岡県北九州市八幡西区上香月の『杉守神社』(すぎもり)へ行って来ました。
場所
福岡県鞍手郡鞍手町『八劔神社』 - chayarokurokuroの読書ブログの鞍手町大字中山の八劔神社からの移動で、距離にして9キロ。遠賀川を渡った。ナンバーが筑豊から北九州に変わる。
どうやら裏から入ったらしい。
銀色の鳥居。
本殿の後ろに出た。
キツネ。
らしからぬ造り
由緒
杉守神社
ヤマトタケルだけでは寂しいからと、あとで付け加えたらしい。
- 由緒
- 日本武尊は熊襲平定の帰途、筑紫の豪族小狭田彦の家に入りし時「あな楽し、花の香、月の清き地かな 今より以後、この地を香月邑と名づくべし」と宣い、熊襲平定の賞として小狭田彦を香月君と号し給う その後、日本武尊が伊勢国で崩御し給ひしを小狭田彦聞き嘆き悲しむ ある夜小狭田彦の夢に尊が現れて曰く「往昔、杉桜の樹間の月が前川の水に映るを見しが、今猶追慕の志あり 我白鳥と化してこの地に飛び来たらん」
因りて尊の神霊を祀り「杉森宮」と号す
小狭田彦の、曽孫二人有りて 長男を香月宗家となして香月君に任じ 次男を神官となし、千々和氏と号して現在に至る
元慶二年(878)神官千々和朝麿に託宣有りて
神功皇后、応神天皇、仁徳天皇を合祀して
「杉守宮」と号す 昔は九月二十日の祭礼日には御旅所への神輿御幸あり 遠賀郡七旧社の一として氏子民衆に崇拝されてきたり
- 日本武尊は熊襲平定の帰途、筑紫の豪族小狭田彦の家に入りし時「あな楽し、花の香、月の清き地かな 今より以後、この地を香月邑と名づくべし」と宣い、熊襲平定の賞として小狭田彦を香月君と号し給う その後、日本武尊が伊勢国で崩御し給ひしを小狭田彦聞き嘆き悲しむ ある夜小狭田彦の夢に尊が現れて曰く「往昔、杉桜の樹間の月が前川の水に映るを見しが、今猶追慕の志あり 我白鳥と化してこの地に飛び来たらん」
「瓜生荒次郎」の名前が見える
筑豊は炭鉱の町。大辻礦業所というところの所長さんらしい。
手塚治虫の漫画に出てきそうな面
古参はだいぶん年期が入っている
見てこれ。鳥よ。
日本武尊なので白い鳥。だが鳩っぽい。
参考
福岡県鞍手郡鞍手町『六嶽神社』 - chayarokurokuroの読書ブログこちら「六嶽神社(むつがたけ)」に鳥の乗った燈籠があった。
鳥だらけ。
鳥の足は2本。
拝殿を正面から撮り忘れた。
下る。
こちらの下に正面の鳥居がある
階段途中に曲芸師
3枚、別方向から
「菅廟」菅原道真か?
正面入口右手。だだっ広い駐車場がある
『香月文書』によると、磐井の乱で物部麁鹿火側に付いたとか、磐井の息子を奴僕にしただとか書いているようだ。
香月文書の信憑性はどうなのかということと、実際に磐井とドンパチやったとして、我が妄想ですと磐井は倭の中心人物なので相当な大勢力を持っていただろうから、最低でも九州内の、肥前肥後と筑後と豊の前後を敵に回したということになる。高良大社の丹波・阿曇・物部・草壁・百済を全部敵に回した訳よね。しかし実際はその150年後まで倭国は存続している。
なぜ香月氏は生き延びられた?
追記
香月氏に養子に入った倭男人=巨勢男人説あり。肥前佐賀の神埼と筑豊の香月氏が組んで磐井をヤッたのかな?
そして宗像と蘇我が出てくると。