福岡県福岡市東区の志賀島にある『志賀海神社』(しかうみ・じんじゃ)に行って来ました。
どことなく童話挿し絵の竜宮城っぽい佇まい。
記紀の日本神話では、出産時に亡くなった嫁のイザナミに会おうと、夫のイザナギは黄泉の国へ行きます。あられもない姿を見られて怒ったイザナミに追いかけられたイザナギは、命からがら黄泉の国から戻って日向橘の小門の阿波岐原で禊をした。
その際に生まれた綿津見三神をこちらの神社では祀り、海神の総本社を称する。安曇氏ゆかりの神社。
【公式】志賀海神社ホームページ
志賀海神社 - Wikipedia
場所
志賀島の東側。
志賀島までは下道で繋がっていますので車で行けます。電車もJR香椎線が通っている。
湾岸の埠頭に出入りする大型トレーラー、海の中道公園やマリンワールドなどのテーマパーク、お洒落な新興マンション住宅街もあり交通量も多い。釣り人も多数。志賀島一周が10キロほどでツーリングも多数。
本来の元宮は、志賀島の最北端の勝馬地区にある志賀海神社だったそうですが、現在の場所に移ったとか。
もともとは外洋に出る時に覚悟を決める場所だったんだろうか…
神社の入り口に説明板。
この横に社殿への階段があるのですが、脇にお清め用に塩ならぬ清められた砂(御潮井 オシオイ)が箱詰めして置いてあった。
清めて登るべし。
砂マミレで階段を登るべし。
印鑰社(インヤクシャ)。
【参考】
https://saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2100
神社らしからん現代風のお洒落な燈籠。ここは文明輸入の玄関口。
志賀海神社は綿津見三神(ワタツミ)を祭り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入口に鎮座し、海人部(アマベ)の伴造(トモノミヤツコ)として著名な阿曇族(アズミ)に奉祀されました。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられています。平安時代の『小右記』には志賀海神社社司の対宋交通が記され、中・近世には大内氏、小早川氏、黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。
社蔵の鍍金鐘(国指定重要文化財)は高麗時代後期の特色がよく表われ、境内の完存する石造宝篋印塔(セキゾウ・ホウキョウイントウ 福岡県指定文化財)は銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立の時期が考えられます。
この神社の神事のうち、1月中旬に厄疫退散と五穀豊穣、豊漁の意味を兼ねて行われる「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
げな。
石造宝篋印塔(セキゾウ・ホウキョウイントウ)
福岡県指定文化財
銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立か。
ようやく竜宮城がみえてきた。
ここに失くした釣り針はあるんやか。
門番がいる。
左のは愛想ない。たぶんトイレを我慢している。
右のは笑顔。
山の神。大山積見神。造船に木材が必要だからか。
到着。下の駐車場から10分くらいか。
菊の御紋。もとは倭国の神社なんだろうけど。本来ならミッキーマウスの逆さまみたいな紋の筈…
拝殿
御潮井(おしおい)。砂でお清め。
左右左と。
2拝2拍手1拝。
「亀石(かめいし) 遥拝所(ようはいじょ)」
拝殿向かって右手にある。
神功皇后が三韓征伐に出る際、対岸の打昇浜(ウチアゲノハマ)で阿曇磯良丸を通じて祈願し7日7晩も神楽を奉納したと。すると黄金雌雄の亀に乗った志賀明神と勝馬明神が現れ玉を授け、船の舵と航路を守り導いた。その逃がした亀がこの石と。
「遥拝所」打昇浜に向いてるのか。
志賀明神と勝馬明神が乗って来た黄金雌雄の亀(石化した)。
亀に乗ってるということは、志賀明神と勝馬明神は国津神という意味?
外洋航行のプロフェッショナルを阿曇磯良が率いていた。一大率?
拝殿と本殿を繋ぐこの通路が長いほど神社の格式が高いのだと、他の神社で神主さんから伺った。
本殿裏にたくさん小さな社があったが、(ブログの画像容量制限を考慮し)アップなし。
阿曇磯良は福岡県大川市(有明海)の風浪宮の初代宮司だという。風浪宮の創建が西暦190年代だというから卑弥呼の頃です。
神功皇后は架空の人物か知らんが、実在なら4世紀頃だろう。
志賀海神社の大宮司は代々、「阿曇磯○」と名前を受け継いでおられるようですから、神功三韓遠征のときの阿曇磯良も何代目かにあたるのだろう。
綿津見三神や住吉三神はオリオン座の3つ星を指している説があるようです。船乗りが真っ暗闇の大海原を航行する際のガチな技術を神社は持っていたんだろうけど、時代と共に形式化して、また高齢化も伴い、何の儀式なのか宮司も分からなくなっているといいます。
因幡の白兎がワニを騙したため皮剥がされノタウチ回ってる時にスサノオ(だったっけ?)が手当てで薬草の調合や処方を伝えた(伝えたっけ? )のと同じように、お清めや禊も先端医療的な意味を持っていたのだろう。
作法があるのは一種のプラシーボ効果だろうが、本来の意味が失われて形式だけが残ってしまう。
武術の訓練を権力者に見付からないよう行う為に踊り化させ、武術の形としての意味が分からなくなるように。神楽ももしかしてそういうものだったのかも…
最後に、トンデモ妄想を。
阿曇磯良は白装束で顔も白い布で覆い隠してますよね。
拝火教(ゾロアスター教)の影響じゃないか。彼らも同じ格好をしてる。
「火」をアータルと言う。阿多や吾田の語源ではと。アヴェスタが阿倍とか。始皇帝の側近にペルシャ系がいたと言うし、ゾグド人とかは技術や知識を持っていて重宝された。紀元前5世紀にギリシャ海軍とドンパチやる技術を持っている。1人2人日本にまで流れて来たのが居ても変ではない。こじつけが変なだけで(笑)
いや、新羅の影響とかだと普通すぎて面白くないので…